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今夜の番組チェック

第3期 2002年 5月20日〜(全10回)


「写真は質的な差異を廃棄し、量として、均等な価値として、等質的な空間を現出させることで近代以後の芸術としての位置を確保した。写真における「遠近法」は、現実と印画紙に写ったモノの差異を、カメラの精密な描写力によって現実との同一性=等価交換というベールをかぶることによって、作画上の構成で事後的に発見された「遠近法」を現実だと強弁することで、写真は優秀な現実の再現機能やメディアとして認められてきた。
 写真ははたして本当に現実を再現できるのだろうか?写真は本当に現実との幸福な一致を勝ちとれるのだろうか?写真は現実の代理物ではないし、そのような「社会的な象形文字に転化する」(マルクス)ことを写真は信用することができない。写真は現実の代理物、現実とは似て非なる対象を現実だと思い込むことによって、現実を所有可能かのように錯覚するフェティシズムの道具のためにあるのではないだろうし、そのようなフェティシズムを前提にした上で、現実に迫るだの現実をいかに写すのだという作業はまるで無意味なことだろう。
 私達は写真を何かの代理物だろうと思い込む、フェティシズムというベールの中で、本当に現実は見えるのだろうか?私達はつねにベールをかぶらされ本当に写真を見たことがあるのだろうか?写真を撮るということは、まだその本当に見たことのない、見ることができない写真を垣間見られる(見るという主体的な意志の成立は写真にとって不可能だろう。)ためのレッスンなのかもしれない。」金村 修

第1回 2002年5月20日(月)19:00〜

 

受講者多数!

高校生から60代の方まで、リピーターも初参加者も、老若男女、日本人も留学生も。。。
活気あるワークショップになりそうです。

本日の参加者は12名。
会場のコンテンポラリーギャラリーも模様替えして、少々落ち着いた雰囲気。

自己紹介の後、一人ずつ作品を提示してもらいながら、金村さんによる講評。
各々の課題を探る。

今日からまた「写真する日々」がはじまります。

(レポート:小寺)

第3回 2002年6月3日(月)19:00〜

 

 「ここ最近、いわゆる“ストリート・スナップ”ってみないよねえ…」とは、当ワークショップの最近の専らのうわさである。それというのも、このいわゆる“ストリート・スナップ”をこつこつと撮り続けている参加者の出現による。
 ・・・と、今回は“ストリート・スナップ”とその作家の身長との関係について、考えることになった。

 写真をみていれば、作家の視線がどのくらいの高さにあるのかということにおのずと興味は至るもので、「この作家の身長は高いのか低いのか?」と想像をめぐらせたりする。例えば、森山さんについて「地べたを這うような視線だなあ」と、はじめて観たころに思った。もちろんノーファインダーの写真も沢山あるわけだが、果たして森山さんの身長はどちらかというと低い部類に入るだろう。
 作品と作家の身長の関係は、結構必然的な問題であると思うのだが、中でも“ストリート・スナップ”は、その関係性が大きくあらわれる種類のものといえる気がしてきた。
 “ストリート・スナップ”といえば、豊原康久、吉野英里香が思い浮かぶ。
 吉野さんは日本人女性としては長身の方だが、日本人の一般的な視線に馴染む高さにその視線はあるといえよう。人ごみのなかにまじって切り撮られた写真は、観ている者をも雑踏の中に連れ込んで、そのスピード感やざわめきまで感じさせる。人波が前方から迫ってきて自分の顔の脇をかすめていくような切迫したおもしろさがある。
 豊原さんは長身である。それも日本人離れしたかなりの長身だ。その高さから切り撮る人ごみは、眺めのよさがある。いつもは見えないところが見えるような気持ちよさ。スーッと抜けて気持ちよく眺められるといった感じだろうか。その感じのせいか、余裕があって視線は乾いているようにもみえる。吉野さんの向こうが見えないが故の切迫感とは違って、視線の高さ故に向こうまで見えて、待ってつくれる“間”のようなものかもしれない。
 さて、この“間”とは難しい。良きにも悪しきにも傾く。“間”は「いい」ときもあれば「抜け」てしまったり「悪い」ときもあって、写真の中に存在する“間”も同じだろう。
 金村さんによれば「豊原さんは“抜け”の先に入ってくるものまで選んで撮っている」ということだ。すなわち、豊原さんの“間”は計算され、良きに傾き、そして「“間”のいい」写真となっているといえるわけだ。

 こつこつといわゆる“ストリート・スナップ”を撮り続けている参加者は、この非常に難しい“間”を強要される高さをもつ。作品は、抜けが気持ちいいし、余裕があるからか、金村さん曰く「やさしい」写真だ。気持ちよく見れるからスーッと通り過ぎてしまうおそれもあるし、じっくり観てその独特の“抜け”の気持ちよさがツボにはまってくると、クセになりそうだ。
 そこで金村さん。「これでいくと、君の場合、延々やれちゃうんだよねえ……。作家って行き詰まりがある方がいいんだよ!」

 この心地よい“間”を、どんな形で、良きに傾けていくのかが、大きな課題となった。

 

(レポート:小寺)

第7回 2002年7月1日(月)19:00〜

梅雨。
なかなか太陽に会えない日々。
写真を撮るには悔しい思いを強いられる季節。
それでも、撮る人々。。。
感心させられます。

今回は、今期前半の金村氏の言葉を集めます。

「カット数多くした方がいいよ。写真ってセレクションだから」

「見やすいってのは、どっか見やすくさせてるのがあるから。それをはずしてくっていうか。。。」

「余分なモノがあるから写真っておもしろいんだよ。在るイメージをくつがえす。。。」

「みえるイミの幅を与えてる方が、観る人はついてくる」

「ピンをどこに置いていいか分かんないってのは、どこ撮ってるか分かんないってことだよ。ピントは一つの意思表現みたいなものだから」

「写真って基本的に物語を否定するから」

「言語に表現できちゃうと、写真にとってはナンセンス。写真は形容詞を拒否するものだから」

「フィルムなんて消費するものだから!」

「シャッターチャンスだという根拠のない写真がおもしろい」

「興味がないってのは重要なんだよ!興味が固まってない時は、カメラに任せるのも手なんだよね」

「全部写っちゃうとおもしろくないんだよ」

「東京は東京なんですよ」

「影って難しいんだよ。何でかっていうと面になっちゃうから。現実って遠近感があるでしょ」

「今の時代、意識しないってのは難しいから、意識しないフリ」

「モノが説明しちゃうと、それで終わっちゃうんだよね」

「日常写真はタブロを否定していく」

「ヒューマンでモノ見ちゃ駄目だよ。モノなんだから。あんまりヒューマンの目で見てると、写真って曖昧になってくるんだよ。
そこに意味を与えるんじゃなくて、完全に視覚的な快感にに持ってくんだよ。言葉の方に寄っていかない!」

(レポート:小寺)

第8回 2002年7月8日(月)19:00〜


 今期、初の実況中継。
 今回は2名を紹介いたします。


忍田衣美さんは、写真をはじめて数カ月。。。

金村:

「この写真がいいのは汚いものを汚く撮ってる。そこにマジックがないからいいんだよ。
 君って変だよ。(笑)部屋のなかの撮り方と外の撮り方が同じなんだよ。
 だから、こういうの(写真2・4)と、こういうの(写真1・3)が並ぶんだよ。
 コンポラっぽいかもね。」

「写真って撮っててあきちゃう時ってくるんだよね。あきても撮れるかなんだよ。」

「もっと撮ればいいのに。。。」



写 真 1

 
金村さんの言葉が思い浮かぶ。。。

 

「写真って基本的におもしろいから撮るじゃない。でも、日常写真はおもしろかろうが、つらかろうが撮る、とにかく撮る。そのつまらなさを受け入れていく。。。」

「どうしても撮れなかったら、朝起きて壁を撮る!」

 



写 真 2

写 真 4


写 真 3


林隆文さんは、今期・第3回レポート(上記)で紹介させていただきましたが、その後。。


カメラを35mmから6×7に持ちかえた。

中判になると、いい意味でシャッターチャンスを逃すという効果があるために、高さ故に見えてしまう自分を抑制できるのではないかという金村さんとの話し合いによる。


金村:

「いいんじゃない。カメラかえて良かったね」
「すっごいなんか気持ちわるい。。。入りきれてないっていうか、それがいいね」
「ピントはくるとこがくればいいよ」


(レポート:小寺)