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第14期 2006年1月23日〜(全10回)



「作品を創るということは自らの固有性を、通約不可能な一回性としての固有性を、通約可能な何度でも反復可能な商品として市場を流通することを是認することではないだろうか。オリジナル=世界で一つだけのものという幻想は打ち砕かれ、価値は他のものとの示差的な関係でしか、そのものの価値を計ることができないという市場の世界に足を踏み入れていくこと。私たちは世界でたった一つの尊いものなど手にすることはできない。言語と記号を媒介しなければ思考することができない人間にとって自分だけの、唯一のという考えはある種のイデオロギー操作の結果でしかないだろう。市場に足を踏み入れるということは自分を消去していかなければならないし、自分を消さなければ存在できないというアンビバレントな市場の世界から作品を創る人間は誰も逃れられない。交換可能な存在として自らを積極的に消していくこと、固有性を打ち消していくこと。アンドレ・ブルトンがシュールレアリズムとは街頭で銃を撃つことだと言ったのを想起するべきだろう。街頭という市場の中での銃は交換可能な存在としてあり、決して特権的に実体化された銃なのではない。示差的な関係によって価値を与えられるものなのだ。実体をはぎとられた銃はその等価物の商品になることによって、還元不可能な何かを市場の中で存在させる。流通不可能なものを積極的に流通させることで、街頭は記号で埋め尽くされた表象の世界、背後に意味の支えを失った世界へと変換する。作品の固有性を徹底的に打ち消すことで私たちは何か、具体的な何かを存在させることができる。」金村 修

 

第4回 2006年2月14日(火)19:00〜

今回は、日常写真についてのお話がありました。


金村:

「写真をわざわざ撮りに行くってことも重要なんですけど、日常的に撮るっていう方法もあるんですよ。
 自分は日常的に写真を撮ってるんだっていうのが、観る人に伝われば、いろんな種類の撮り方の写真があってもかまわないんですよ。
そこらへんが伝わらないで、いろんな撮り方の写真があれこれあっても成立しないけどね。写真の規則性やルールってものは必要だから。

 ちょっと大げさな話だけど、ある種、自分の人生っていうか、生き方っていうか、朝起きて夜寝るまで、みてるモノを写すっていう、それがコンセプトなんだっていうね。
 朝起きて、すぐ自分の部屋撮って、暇があったらパチパチ撮るっていうやり方ってすぐ飽きちゃうものなんですけど、そこを飽きるか飽きないかが、やっぱり、たぶん分かれ目だと思う。
ロバート・フランクとか荒木さんは、飽きないんですよ。まあ、本当は飽きてるかもしれないけど、もう芸みたいなもんだから。
 それでもやっぱり、食事中必ず写真撮るとかってすごいことだよね。三脚立ててね、飲んでる時でも撮るとかね。

 一日中、生きてる間の、自分の生きてる時間帯のなかで、気がついたものをどんどん撮っていくのかっていうことね。
ロバート・フランクなんかが、写真を撮るのが生き方だっていうのは、そういうことなんですよ。
 カメラマンって呼ばれる人は、撮影が終わったら、もう関係なし。一切自分のプライベートなこととか、考えとか観念とか、そういったものをみせない。
こういうテーマがあったら、こういうテーマでやって、こういう規則でみせて、どうですか?みたいなね。
 あと、コンセプチャルフォトっていう写真も、自分をみせないし、ある程度のルールをみせるんですけど、またちょっと違う話でね。それは、写真についての写真だからね。

 日常的に写真を撮るってことで、一つにいえることは、量なんですよね。たくさん撮っていって、その中で厳選していくっていうね。
いい写真を撮るとか、悪い写真を撮るとか、どうでもよくなってくるんです。今日はいい日だろうし、明日は悪い日だろうしっていうのと同じようなものでね、そんなことは。
 たとえば、写っているモノも撮り方もつまらない写真でも、自分のなかで、そういう決意のなかで写真をやっていくのであれば、別に、そのつまらない写真が入ったっておかしくないんですよ。それでも全体の中で、おもしろくみえてくるかっていうことなんですよね。
 日常的に撮るっていうのは、そういうことなんです。

 わざわざ撮りに行くっていうのは重要なことですよ。写真家ですからね。でも、わざわざ撮りに行ってるなあっていうのが観る人にみえなくなってきたときが一番おもしろいと思うんですよ。わざわざ撮りにいくとか、行ってないとかっていう問題じゃなくみえるわけだから。
 気負いがみえたりとか、意気込みがみえたりとかすると、まだつまらないんです。サラリーマンじゃないんだからね。」

(レポート:小寺)