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展覧会 金村 修

 

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 N.Y.撮影の新作
 Dante Lobster

 2007.11.17 〜 12.15
void +
http://www.voidplus.jp
 


「はいる前に俺が現世にいたと同じだけ/年月を経つのを門の外で待たされている」(『神曲』ダンテ) ベラックワは求めていたわけでも 望んでいたわけでもない現世の年月と同じ時間をそこで待たなければならない。被昇天の辺獄、天上のない地上の岩盤を足跡も残さずどこに行くのか分からない。けれどベラックワと反対の方向に逆行する。「土塊から人間を造っていただきたいと、私があなたに頼んだことがあったでしょうか?」(『失楽園』ミルトン) 望みの年月を与えられたわけではない。流産/死産に失敗して生まれてきた年月の分をまた門の外で反復する。幽閉された循環する回路の中。循環はひび割れている。循環の中心はねじれ、亀裂が入り、反復はいびつな形で繰り返される。「陰惨な場所で、私は永遠に生ける死者として横たわることになるのではないか?」(同上) 埋葬されることを拒否する。昇天しないことは、生ける死者になることは、希望なのだ。洗礼を受けずに死んだ子供の魂は肯定させるべきだ。オーギュスト・ブランキは獄中の単調さを何度生まれ変わっても繰り返すと言い、突撃隊のレームは処刑される前に“革命はその子を飲み込む”と語った。何度でも反復すること。“生ける死者の轟き”として何度でもいびつな形で繰り返す。循環から解放されるのではない。循環の中で轟くこと。ドゥルーズが「哲学とは概念を発明する身振りの総体」と言ったのは、私達はこの世界で轟く以外に生きることができないからだ。“身振り”を、うまく伝わらない奇妙な“身振り”を繰り返す以外に生きることができない。」金村 修

 新作個展
 My name is Shockhammer.

 

2007.10.19 〜 11.17
新ギャラリーオープン Port Gallery T
大阪市西区京町堀1-8-31安田ビル1F
http://www.portgalleryt.com
 


「この世界から〈理解〉という装置を取り除く。理解は理解できるものだけしか理解しないし、理解できないものは表象不可能なものとして排除しようとするなら、理解から取り残されたもの、理解が挫折したものを撮るだろう。写真は世界を理解したり翻訳したりする装置ではなく、理解という装置を一切持たずに世界と対応しようとするものであり、ものを撮るということはものを正確に把握し再現する行為ではなく、何百回同じものを見ても不正確に曖昧にしか輪郭を思いつかなくなることであり、正しい輪郭をもう一度なぞろうとしても何度も書き間違える。何度も聞き間違え、何度も思い違い、いつまでも書き間違えることしかできない。輪郭を破裂させること。藤枝静男の『空気頭』のように鉄と水の区分を放棄すること。なぞることは消滅させることであり、なぞることは裏切ることであり、なぞることは去勢されることである。失敗し阻止され円環は破壊される。写真はとうとう知覚することに到達できない。知覚は放棄される。「知覚しえぬものになることこそが〈生〉なのだ」(ドゥルーズ)」金村 修

 金村修、撮り下ろし新作出品。
 水の情景 - モネ、大観から現代まで

 

2007.4.21 〜 7.01 
横浜美術館 
 

 

 Spider's Strategy

 

2007.4.11〜6.02 
アメリカ、ニューヨーク・Cohen Amador Gallery 

第3回 大阪・アート・カレイドスコープ“do art yourself”協賛事業
  大阪考現学 金村 修 & 吉野恵理香 展

 

2005.11.25 〜 12.07 
大阪造形センター(OZC) 
http://www.ozczokei.com 

 CHINESE ROCKS

 

2005.11.04 〜 26 
ZEIT-FOTO SALON 
http://www.zeit-foto.com/ 


「ジョニー・サンダースは中国製のヘロインについて歌い、“あの世行きでもかまいやしない”と叫んだ。ジョニー・サンダースのチャイニーズ・ロックは何かを暗示したり、詩的想像力に訴えるようなもったいぶった歌ではない。それは中国製のヘロインについてのストレートな声明であり、血管に一撃を、粉々に肉体が崩れ落ちるような一撃を望む人達のための歌であり、血管に流れる血液を鉛のつまったゴムホースに改造するための、肉体の生命秩序を維持する合理的な交通網の血管を、どこを切っても血もでない血管に、内臓を縛りあげワイヤーでグルグルに巻きつけるピアノ線のような血管に変化させること。肉体の中の全ての体液を追放する。“チャイナ・ホワイトのドブの中で生きている”私達は自分の肉体を物質に、“血のつまったただの袋”(カフカ)ではなく鉛のつまったただの袋に変質させられる。チャイニーズ・ロックは有機的で混沌とした肉体など求めない。器官と体液を追放した肉体、鉄の骨組みだけでできた肉体を要求する。」金村修

 横浜美術館 開館15周年記念
   イメージをめぐる冒険
    
AND? それとも VS?

 

2004.4.13 〜6.27 
横浜美術館 

 

 第61回企画
   金村 修展
  13TH FLOOR ELEVATOR OVER THE HILL

 

2004.4.12 〜5.15 
中京大学アートギャラリー C・スクエア 
9:00〜17:00 
休館:日・祝(4/29〜5/5)
 

 

 流動する美術-ヲ 都市風景のメカニズム
     伊奈英次・金村修の写真

 

2003.10.15 〜12.27 
福岡市美術館 企画展示室 

  

 金村 修 近作展
 STRAVINSKY OVER DRIVE

 

2003.9.02〜14 
水戸・ART WORKS GALLERY 

 

 そのあしどりを探る
   -伝統からうまれる日本の現代アート-

 

 

2002.9.13〜10.6 
フィンランド・HIPPOYTE 

…カタログ解説より…


 金村修がもう10年以上も取り組んでいるテーマは「都市・東京」である。彼の作品は、構造的なモノクロ写真でありながら、伝統的スタイルの都市写真とは完全に異なるものである。彼は、ポストカードのようにきっちりと構成された街の風景にも有名な建造物にも興味がないのである。20世紀の芸術写真において主流をなした群集写真的ストリートスナップにみられる劇的で不自然な決定的瞬間を求める多くのストリートフォトグラファーたちのなかで、金村はむしろ、それらを拒んでいる。
 彼は、東京という街を、フレーム各々にあるいはフィルム各々に、再生していくようにして、くり返しくり返えし、しかし常に斬新に切り撮っていく。言いかえれば、金村の芸術的策略は、カメラという装置の限界以上に真実を表現することを求めて時空を凝縮させようとする典型的な写真の方法に基づくものではないということである。このように彼の策略と作品との因果関係をたどると、リアリティーとは、ありふれた日常のふとした瞬間にこそ立ちあらわれるものであるということができよう。
 金村はよく、同サイズ・数十枚の写真群を、対立させたり並列に並べたりして、モザイクのように展示する。これによって観る人々は、前面からだけでなく側面からも背後からもせまってくる展示をみるという珍しい状況を体験することになる。こうした空間構成のなかにある金村の写真を体験してはじめて、彼の東京の策略の真意がみえてくるのである。金村の根本的な目的は、東京と呼ばれる場所を描写することでなく、全てが変貌を続けているにもかかわらず、まるで万華鏡の中のように同じような景色ばかりに囲まれた現代人の典型的な時空体験を閲覧することなのである。金村の展示は「東京」を思い起こさせる。かといって、ニューヨークやロンドンなどの主要都市に既存の典型的イメージとは異なる独自性を強調するでもなく、ただ自然にその特色をみせてくれる。

翻訳:小寺 

 表象
  
-日本の近代写真、ビデオ、ペインティング-

 

2001.11.11〜2002.1.6 
オランダ・FOTO Instituut 

…カタログ解説より…


「解釈なんてされたくない」
 金村修は、自らの著書でこんなことを述べている。「特に表現したいものなんてありません」1989年から東京や川崎などの街を撮影している彼のモノクロ写真は、ほとんどが濃いプリントで、建造物の暗く入り組んだイメージである。ビルの風景、電柱や電線、広告や店の看板、建物、道路標識、線路や自転車。
 金村がシリーズにつけるタイトルは注目すべきものである。「Someday O.K. Prince Will Come」「Black Parachute Eyes」「All the Needles On Are Red」。。。これらは、彼のたくらみが単なる東京の土地描写ではないということを意味するだろう。つまり金村は写真それ自体が一人歩きするものであるという認識の上で写真を撮っているのである。「写真とはパラシュートみたいなもの。つまり、どこにたどり着くのか決して分かりえない」とも述べている。
 金村は、自分の作品を現代の混沌とか日本社会に埋もれた目立たぬ場所の象徴として安易に解釈する批評家を、時折、痛烈に非難する。「写真は写真でしかありない」こうした金村の写真のイメージにおいて強調しているものは、彼のビデオ作品においてもみられる。東京の街々で撮影した短いショットで構成・編集され、画像と音声の断片が速いテンポで次から次へと映し出される。一つ一つの像が映し出される時間があまりに短く、それらが観る者の内面に触れるなどということは困難であろう。

Frits Gierstberg 

翻訳:小寺 

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